村上春樹:意味がなければスイングはない
2005年 12月 27日

今回とりあげられているテーマは、次の通りなのですが、なかなかマニアックなところをついているでしょう(笑)。
・シダー・ウォルトン/強靱な文体を持ったマイナー・ポエト
・ブライアン・ウィルソン/南カリフォルニア神話の喪失と再生
・シューベルト「ピアノ・ソナタ第17番ニ長調」
・スタン・ゲッツの闇の時代1953-54
・ブルース・スプリングスティーンと彼のアメリカ
・ゼルキンとルービンシュタイン/二人のピアニスト
・ウィントン・マルサリスの音楽はなぜ(どのように)退屈なのか?
・スガシカオの柔らかなカオス
・日曜日の朝のフランシス・プーランク
・国民詩人としてのウディー・ガスリー
たとえば、クラシックのフィールドで、シューベルトの「ピアノ・ソナタ第17番」を取り上げ、実際録音を残しているピアニストを比較分析しておられるのですが、比較的取り上げられることが稀なこのピアノ・ソナタの音盤を15枚も持っておられるのは、先ず大きな驚きであります。村上さんが第一に押されていますアンスネスは、聴かなきゃと思いつつも、未だ1枚も彼のピアノを聴いたことないのですが、カーゾンのシューベルトも評価しつつ、内田の才能を認めつつ彼女の演奏を取らないこと、リヒテル、ギレリスを切って捨てているというのも、感覚的に良く理解できます。
また、プーランクについて。クラシック音楽の世界で、バッハ、ベートーヴェンといった主流から外れたフランス近代音楽の中でも、どちらかというと、これだという目ぼしい代表作が無い由、ついつい見落とされ勝ちなプーランクを非構築性の見地から論ずるところなど、フランス音楽好き、プーランク好きの私などからすれば、嬉しさのあまり涙がとまりませんね。日曜日の朝にプーランクを聴く至福のひとときなんて、私もたまりません(笑)。
ウィントン・マルサリスについては、以前彼が書いたエッセイ「誰がジャズを殺したか」と密接に関係しているのですが、この「誰がジャズを殺したか」の後日附記が『東京奇譚集』の「偶然の旅人」の冒頭にも繋がっていることからも興味深いところであります。タイトル『意味がなければスイングはない』は、もちろん、デューク・エリントンの「スイングがなければ意味はない」をもじったものですが、「意味がなければスイングはない」とは、ウィントンのことを話しているのでしょうね。ウィントンは、ちょうど、私が、本格的にジャズを聴き始めた頃、コロンビア・ソニーからデビューし、ハービー・ハンコックなどとの競演、モーリス・アンドレといったクラシックの大御所との出会いから、クラシックのフィールドに進出というふうに、メジャーにより大事に育てられたことから、彼の才能は認めるものの、何かしら面白くない、特に彼のコンボがつまらないと日頃感じていたところであり、その理由などもなるほどねと感じいるところであります。
ジャズピアニストのシダー・ウォルトンなど、これまた渋いところをついてます。私は、彼のトリオやカルテットはあまり聴いておらず、どちらかというとジャズ・メッセンジャーズやアート・ファーマーのサイド・プレイヤーとして手堅いいぶし銀のプレイを披露しているピアニストという印象が強いのでありますが、強靱な文体を持ったマイナー・ポエトなんて、相当聞き込まないと書けないですね。まあ、村上さん自身、ジャズ喫茶の店主だったことからすれば当然なのかもしれませんが(笑)。もう一度、シダー・ウォルトンを聴きなおして出直すこととします(笑)。
ブルース・スプリングスティンは、私自身、あまり好きなタイプのミュージシャンではないのですが、ひょっとして、「ノルウェイの森」を書かれた村上さん、スプリングスティーンと自分自身を二重写しにされているのではと思えるところもありですね。
まあ、それ以外のテーマにおいても、彼自身、音楽評論家ではない由、評論家としての制約が無いこと、さらに小説家としてのユニークな視点など、なかなか新鮮に読むことができるのではないでしょうか。彼の音楽遍歴を理解することや、小説を読み解く上でのひとつのヒントとしても、ここに書かれたものは興味深いものでありますが、音楽そのものを、また違った視点から見る(聴く)上でも、充分お薦めに足る内容となっていると思います。