宍道湖の朝を歩く(4)松江大橋と源助公園
2015年 10月 11日

アオサギたちが屯(たむろ)していた白潟公園から松江大橋までは徒歩数分。

もうこのあたりは、宍道湖ではなく、宍道湖と中海を繋ぐ大橋川です。
この大橋川には、4本の橋が架かっています。長さや大きさでは他の橋にかなわぬものの、最も深い歴史を持つのが「松江大橋」で、日本百名橋にも選ばれているとか。

小泉八雲の「知られざる日本の面影」をはじめとして数多くの書籍で紹介されて、松江を代表する名所の一つになっています。
御影石でできた欄干は20個の擬宝珠(ぎぼし)で飾られ、橋の中程には夜になると点灯される4つの灯篭がある風情のある橋です。

江戸時代初期までは大橋川には「カラカラ橋」と呼ばれた人がやっと通れる竹の橋が一本あるだけだったとのこと。松江開府にあたり、松江城築城のための馬や物資を運ぶ荷車が通れる強固な橋の建設が堀尾吉晴公より命じられました。
この橋の建設工事は洪水などで難渋を極めたため、川の神の怒りを静めるために、マチの無い袴(横縞の継ぎをした袴という説もある)をはいて、その日の朝一番に「カラカラ橋」を渡る男を人柱とすることになり、橋とは何の関係も無い足軽の「源助」がたまたまその服装で橋を渡ったために捕らえられ、人柱として生きたまま橋脚の下に埋められたという言い伝えがのこっています。
このような経過を経て橋は慶長13年(1608年)に完成し、これが初代の松江大橋とされています。
その後も洪水や事故のため、何度も橋の架け替えが繰り返され、現在の橋は17代目の橋で、昭和12年(1937年)に完成したものです。

なお、松江大橋の南詰めの「源助公園」には、橋の建設での尊い犠牲者を供養する2つの石碑があります。

一つは人柱となった源助の碑で、もう一つは現在の橋の建設中、落下した鋼鉄製のバケットで頭を打って亡くなった深田清技師の碑です。


深田技師が事故にあったのが、源助が埋められたとされる橋脚のそばであったため、当時の新聞に「痛ましい昭和の源助」と報じられたそうです。