機銃掃射のあとが残る壁
2015年 07月 19日

校庭の南西隅に面した高さ1.8メートル・幅11.6メートルの塀には、背面補強と表面の樹脂加工といった保存措置が施され、説明版が取り付けられています。尼崎市内において、戦争の爪痕を今に伝える、数少ない戦災モニュメントのひとつ。
こどもたちが集う小学校そばで、逃げ惑う人間めがけて射撃するなんて、酷い話ですね。

近隣で伝わる話によると、グラマン戦闘機は乗員の顔が鮮明に見える穂ど低空を飛行し、逃げる住民を射撃していたとのこと。

なお、近くの城下町の風情が残る尼崎市寺町地区に建つ「本興寺」(同市開明町3)の灯ろうや墓石にも米軍機の機銃掃射の痕跡とみられる跡十数カ所が残っているそうです。

*尼崎は1945年(昭和20年)3月から8月まで空襲を受け、そのため死者479人 焼失家屋11000戸 罹災人員42000人の被害を受けたとのこと。この機銃掃射の痕は昭和20年6月に大阪・尼崎が空襲を受けた際にP51戦闘機によってなされたものと推測されるそうです。