長浜城に残る2つの人柱伝説
2014年 05月 08日

湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた典型的な水城。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもあります。

本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得した柴田勝家の甥の柴田勝豊が入城するも、まもなく勝家と対立した秀吉に攻められ落城。
賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が6年間在城するも、1615年(元和元年)に廃城になり資材の多くは彦根城の築城に流用されたとのことです。
約40年で廃城となっており、そのありし日の姿を残すものもなく、現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、歴史的価値はほとんどないようで、市立長浜城歴史博物館として運営されています。
長浜城址の碑は、長浜城歴史博物館のすぐそばに建てられているほか、歴史博物館の北側のこんもりしたところに、秀吉像とともに、天守閣跡の碑が設置されています。


長浜城築城の時に秀吉が掘らせた太閤井戸が残っています。秀吉の没後、石垣の一部とともに長浜城の往時を思い起こさせる数少ない遺構です。渇水時のみ近くに行くことができるようです。

なお、よくお城にはよく伝わる人柱伝説が長浜城にも残されています。「おかね」さんという長浜一の美人が人柱に選ばれて、城下の繁栄の為に身を捧げてくれたと言う悲しい話が伝わっています。長浜城天守跡の北側の堀は、「おかね堀」と呼ばれていて、おかねさんを偲ぶとともに、「おかねさんの碑」が設置されています。

また、もう一つ、旧本丸跡に有る稲荷神社に祀られている「きく」さんの人柱伝説も残っています。
秀吉から命を受けた京極氏は人柱を探してもなかなか見つからない由、困っていると、そこへ漁師が通りかかります。京極氏は人柱のことは言わずに、この辺りに若い娘はいないか尋ねました。
すると漁師は娘が二人いると答えたので、一人を築城の人柱に捧げてはくれぬかと頼み込みました。断れない漁師は悩みに悩んで盲目の「しのぶ」が不憫だからお城のお役に立てるように差し出す事にします。しかし、姉の「きく」が妹をかばって、私はしのぶより幸せだったので思い残す事は無いと人柱になる事を願い出るのです。
おきくが祀られた稲荷神社あたりには、おきくを偲ぶようにシャガの花が美しく咲き誇っていました。
