~「虎の屏風」や「このはしわたるな」の橋もあります(笑)~ 酬恩庵一休寺
2012年 10月 31日
◆総門
総門前からのながめです。

◆参道
総門をくぐると、真っ直ぐ参道が伸びています。

石畳を敷いた参道に沿って、モミジなどの植え込みが続いています。少し、色づいたものも見受けられました。

紅葉の頃は素晴らしいのでしょうね。
◆一休禅師のお墓
参道を右に折れてすぐ右側に、一休さんの墓所があります。

一休さんは後小松天皇の息子であることから、宮内庁が管理しています。

ここは普段は入ることはできませんが、門扉の菊花の御紋のすかしぼりからその中を眺めると、すっきりと整えられた村田珠光の作と伝えられる枯山水様式の庭園を見ることができます。

一休さんは、応永元年(1394年)正月元旦に、後小松天皇と、宮仕えしていた日野中納言の娘照子姫との間に生まれました。
本来ならば、時の天皇の子として世継ぎの地位にあったのですが、帝が照子姫をあまりにかわいがるので、それをねたむ者に落とし入れられ、照子姫は一休の生まれる前に宮中を追い出されてしまいます。そのため一休は、洛西嵯峨の民家で誕生していますが、一休さんが6才の頃、その将来を僧侶にと願った母の考えにより、禅宗の臨済宗安国寺(京都)で出家したのでした。
さらに進むと正面に本堂への潜り門、手前右手に庫裡・方丈がある。右手側の庫裡・方丈への中門へ入って方丈へ。
結構、このあたりの楓、結構色づいています。

庫裏を入ってすぐのところに、なんと虎の絵の衝立があったりして(笑)。

その衝立の後ろはこんな風になってます。なかなか愉快。だって、この絵の虎、衝立から、抜け出しているみたいですから。そうなると、一休さんは、虎を捕まえなくっちゃ。

◆方丈
方丈は江戸時代、1650年(慶安3年)に、加賀藩・三代目藩主、前田利常の寄付によって、再建されたもの。

「大坂夏の陣」の時、大坂に向かう途中、木津川に陣をしいたときに、一休寺をお参りしたところ、一休和尚が書き残した数々の「おきて」を見て、尊敬の念を抱くと共に、寺があまりに荒れ果ててしまっている事をなげき、酬恩庵の再興に乗り出したとのこと。

◆方丈庭園(名勝指定)
方丈周囲の庭園で作者は松花堂昭乗、佐川田喜六、石川丈山三氏合作といわれ、北庭は枯滝落水の様子を表現した蓬莱庭園、東庭は十六羅漢の遊戯を擬えたもの、南庭はサツキの刈込みと白砂の庭とした北、東、南、三面の庭よりなる江戸時代初期の禅院枯山水庭園である。
・南側の庭園
方丈の正面に広がる最も広い南庭は、サツキの刈り込みやサザンカ、ソテツなどが植えられており、刈り込みから軒下までは、きれいな白砂が敷き詰められています。当時(江戸時代初期)の典型的な禅苑庭園です。





次の写真の左の建物は、一休が祀られている御廟墓(観音堂)、そのすぐ右手は、虎丘庵(こきゅうあん/府指定文化財)があります。

この虎丘庭園は名勝指定されているものの普段は非公開で拝観できません。
・東側の庭園
東庭は多くの庭石と刈り込みをふんだんに使い、十六羅漢の遊行するさまを表わしています。




・北側の庭園
北庭は、石塔や石灯籠、手水鉢などを配し、石組で枯れ滝を表現した、禅院枯山水の蓬莱庭園です。


◆方丈襖絵
平成21年(2009年)5月から境内整備事業の一環として劣化が進んでいた方丈の障壁画のデジタル再製画化を伝統文化財保存研究所の石川登志雄監修、大日本印刷制作で行ったとのこと。なお、オリジナルは狩野探幽筆によるもの!




一休さん御使用の輿(こし)なるものもありました。

方丈中央の部屋、襖の奥には一休禅師八十八歳の像も安置されています。

さて、方丈を出て、右を本堂の方に進みます。
なかなかこのあたりも良い風情。



途中、一休禅師の墨跡や頂相(禅僧の肖像画)、天皇がお使いになっていた持ち物などの一休寺の宝物を、展示及び火災などの災害から守る為に、平成元年5月にたてられた宝物殿もあります。もちろん、追加料金無しで拝見できます。
境内には「このはしわたるな」なんてものもあります(笑)。


