手塚治虫の原点、宝塚・御殿山
2009年 12月 23日
言い換えれば、御殿山は、手塚ワールドの原点。しかも、晩年期の傑作『アドルフに告ぐ』の冒頭シーン、芸者・絹子の殺害現場が「兵庫県川辺郡小浜村の御殿山」となっているとおり、御殿山の想い出を終生描き続けたのでした。
もちろん、現在では宅地開発が進んだこともあり、手塚氏が少年時代をすごした60年前とは、すっかり様変わりしているでしょうが、閑静な住宅街はそのままで、今でも手塚少年が虫網を手に虫を追いかけた姿を思い起こすのに充分だと思われます。
手塚先生が約20年間暮らした家は、残念ながら今はもうありませんが、敷地はそのまま。少年時代毎日見上げてきた楠は、今も健在です。

この楠は『新聊斎志異・女郎蜘蛛』にも登場しています。

さて、旧手塚邸からさらに急な坂をのぼった先に池が見えてきます。

これが手塚兄弟の間で「瓢箪池」と呼んでいた池。この池の正式名称は「下の池」と言って当時からその名は変わっていないとのこと。
『モンモン山が泣いてるよ』の舞台となった「蛇神社」は更にその池の先。手塚さん自身の少年時代を映したと思われるシゲル少年と、蛇神社のヌシ、ヘビ男さんとの心の交流が描かれている短編には、手塚先生が愛した御殿山への郷愁と「開発で山が泣いている」というメッセージが凝縮されています。
実際は、神社というより小さな社。

この物語では蛇神社のそばにポプラの木があって、そこへポプラ相撲のための葉を取りに行ったという設定になっていますが、実際にここに生えているのは、樹齢何百年にもなる見事な銀杏の巨木。この大木は宝塚市の保護樹木に指定されています。


「モンモン山」とは、いうまでもなく宝塚の御殿山のことですが、『モンモン山が泣いてるよ』では軍用道路を造るために蛇神社は取り壊され、ポプラの樹も切り倒されたという話になっていますが、ここは今でも民家の脇にひっそりと残っています。『モンモン山が泣いてるよ』に登場する蛇神社そっくりのお社が復元され、当時は「手塚神社再建」と報道されていたようです。ただ、残念なことに鳥居は次の写真のように壊れていました。

手塚さんが「猫神社」と呼んでいた千吉稲荷。どうして、「猫神社」と呼ばれたのかは不明ですが、旧手塚邸から北西約 300メートルの場所にあり、少年時代、手塚兄弟の昆虫採集場所の一つであったようです。
地図をたよりに訪問すると「千吉大神参道」の看板を発見。

田圃の真ん中に続く畦道の先に千吉稲荷があります。

木々の間に続く細い石段の中に何本もの真っ赤な鳥居が続き、その先に忘れられたように祠があります。

御殿山が住宅街と化してしまった現在では、最も当時の様子をとどめている場所かもしれません。
自然や命に対する畏敬の念・・・手塚作品に共通して流れる「手塚イズム」の原点は確かにここに残っている・・・そんな思いを感じ取った御殿山訪問でした。